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車久今昔物語

多度山と白馬伝説

多度全景多度(桑名市)は三重県の北端に位置する山紫水明の郷。東には揖斐川・長良川・木曽川の河川を眺望する多度山のふもと、落葉川のほとりに鎮座する多度大社、風光明媚な八壼渓谷など、四季折々の自然美に恵まれ多くの参拝客や観光客が集う歴史あるまちです。

田園風景多度の歴史は縄文時代、最も古い遺跡からは当時の狩猟や漁猟生活を行っていたことが窺われます。往古の地形は、平坦部は海浜、河床の低い揖斐川が海に流れ込んでいる所には洲が点在しました。農耕生活が始まると、洲を拓いて田畑とし、鎌倉・室町の時代には盛んに新田を開発、穀倉地帯として成長するとともに輪中が形成されていきました。

多度山養老山地の南端、多度の神体「多度山」は昔から神が在わします山と信じられ、農耕に恵みの雨を乞い、安産を祈るというように、人々は日々の暮らしの平穏や家族の幸せを祈り続けてきました。その願いを神に届ける使者の役割を果たすと言われてきたのが、多度大社に1500年前から棲むと言われる白馬です。

多度大社 本殿古来より神は馬に乗って降臨するとされたように神と馬との関係は深く、かつて多度山の小高い丘の上には、遠くに広がる街並みを見、人々の折節の喜怒哀楽を静かに見つめている白馬の姿がとらえられたとされています。天翔る馬には翼を与えたように、その姿を変えて神の懐へと走り去ると、人々の幸せや出会い、喜びを乗せて再びこの地へ舞降りてくると語り伝えられています。

奇祭「多度祭」と「上げ馬神事」

多度大社 多度祭占い多度大社御例祭は一般的には多度祭と称され、上げ馬神事、流鏑馬神事などで知られており、毎年十数万人の参詣者が訪れます。

この神事は、南北朝時代の暦応年間(1338~1341)に、このあたりを分領する武家の中より始まったとされていますが、元亀二年(1571)織田信長の焼き討ちに遭うという悲しい歴史があり、どのように始まりをみせたのかは今なおつまびらかではありません。

本多忠勝像焼き討ち以降、一時中断していた祭事は、徳川四天王の一人、本多忠勝公が桑名藩主として着任すると慶長六年(1601)その再興に尽力しました。

この神事では、古くより農作の時期や豊凶を占われております。

多度祭風景多度祭の華、上げ馬神事は16、17歳の青年騎手が、頭に花笠など華麗な武者姿で馬に乗り、約2.5mの崖を一気に駆け上がるというもので、人馬一体となった迫力や緊張感は見る人の心を奪います。現代でも地区の青年・中老を中心とした年齢階梯的な社会組織を維持し、地元の住民の関心も高く、長きに渡り継承されています。馬が数多く上がれば豊作、少なければ凶作、又最初の方の馬が上がれば「早稲(わせ)」、中頃であがれば「中手(なかて)」最後の方であれば「晩稲(おくて)」の苗を選ぶと良いとされ、稲の品種も占われてきました。近年ではその上がり具合によって景気の良し悪しも占われています。

多度祭風景現在の神事は、寛政六年(1794)にその内容を記した大祭御神事規式簿とほぼ変わらない姿で受継がれており、昭和53年には三重県無形民俗文化財に指定されています。

お多度かけねば片参り

松尾芭蕉句碑昔から『お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り』と詠われていた多度は、養老山地東麓を通る交通の要衝であったため、伊勢国の中でも早くから文化が開けた地域でした。

多度の町並み桑名市から海津市へ向かう美濃街道は、一般には東海道宮宿と美濃の垂井宿を結ぶ脇往還を指しますが、桑名からも長良川右岸に沿って美濃国に到る街道が開けていました。岐阜県では伊勢に通じる街道として伊勢街道とも呼ばれていました。

あの俳聖松尾芭蕉も元禄二年(1689)多度大社に詣で『宮人よ 我が名を散らせ 落葉川』と参拝した折に詠んでいます。(のちに「野ざらし紀行」に記されます)

養老鉄道 多度駅この多度大社の辺りには、昔の風情がたっぷり染み込んだ魅力的な街並みが残されています。どこか懐かしい、心安らぐ街並みに穏やかさと温かさが感じられます。

今では揖斐川流域西側を縦断し岐阜県と三重県を直結する唯一の鉄道路線「養老鉄道」が運行されています。

現在の参拝の様子自然と文化と歴史が息づく町「多度」、皆さんも一度訪れてみませんか?

美味しい米が集積する桑名

石高制の江戸時代、幕府や藩の財政は年貢米に依拠していたので、米基盤の金融システムが確立されていました。そして米の消費量増大で商品化が進み、江戸や大坂を中心として日本全国を結ぶ米流通のネットワークが構築され、米問屋や米仲買はその仲介役として重要な役割を果たしました。

米俵桑名は東海道の宿場町であり、東海地方有数の一大港湾都市。木曾川、長良川、揖斐川の河口に位置するここ桑名には大小25軒の米問屋があり、桑名藩の保護をうけ、日本屈指の穀倉地帯を背景に米の町として美濃米、尾張米、伊勢米などの取引を行いました。

七里の渡し跡さらに米の価格を決める重要な市場「桑名米会所」が天明4年(1784)創設されました。これは明治になり廃藩置県が行われたあとも続けられました。

明治26年(1893)取引所税法が公布されると、県下各地(桑名・四日市・津・松坂・山田・伊賀上野)に米穀取引所が設立の動きが起こり、明治27年(1894)から昭和6年(1931)まで37年間、ここ桑名で米穀取引が行われました。取引所のある新築町一帯は40数軒の仲買店が軒を並べ、さながら別世界の賑わいをみせていました。相場通信連絡には旗信号で、多度山を中継所として名古屋に報じました。

桑名米穀取引所桑名米市場は、大阪堂島、東京蛎殻町、山口赤間関(下関)の3ヶ所と共に注目され、日本で唯一の「桑名の夕市」は翌日相場の指標として重要視され「桑名の相場が全国の米相場を決める」とまで言われましたが昭和6年(1931)その歴史を閉じました。

お米へのこだわり

水田の稲穂歴史的にも米への造詣が深かったこの地区で車久は、こだわり抜いたお米を消費者に届けています。

産地へのこだわり…美味しいお米ができるには、まずお米ができる根本である水田の環境からこだわりたいです。水田の土の状態、水のきれいさ、自然環境はお米の味や安全性に大きく影響するものです。日本全国から美味しいお米を厳選してお届けしています。

白米の粒精米へのこだわり…お米は精米の状態でも味は変わります。

同じ産地の同じ時期の同じお米でもその時の精米状態で味が変わるので、ブランドフーズでは定期的に食味して、精米の状態確認しています。精米しすぎても、足りなくてもお米はおいしくならないんですね。

その微妙なラインこだわっています。そして、お米は精米したてが一番おいしいです。なので、なるべく精米から時間のたたないお米をお届けするために、出荷日の直前に精米し、出荷しています。お届けしたお米はなるべく早くたべていただくと、すごくおいしいですよ。

茶碗のごはん食味へのこだわり…やはり土鍋で炊くお米はおいしいです。

ただ、多くのご家庭使われているであろう電気炊飯器で炊いてもおいしいと感じるお米を追求しています。

お米が「おいしい」と感じるのは一番は「食感」だといわれています。「甘み」と「弾力」はその次に問われるところ。人の感じ方を研究し、「食感」「甘み」「弾力」の微妙なバランスにこだわっています。

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